かつて売春が行われていた赤線・青線の歴史と現在|全国地域別に解説

かつて売春が行われていた赤線・青線の歴史と現在|全国地域別に解説

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匿名風俗調査集団
アキD編集チーム
箱ヘル大好き45歳。横浜の箱ヘルが入居している某ビルを8階から全店舗を制覇。私自身が経験した過去の苦い体験から「風俗で絶対に失敗してほしくない」という思いで、読者の皆さまに全国の優良店を紹介する仕事をしています。「風俗行くならpanpan読む」と言われるよう日々ライターさんたちと一緒に精進していきます。
売春は違法……ですが、かつて戦後の日本で売春が合法的に行われていたのはご存知ですか?それが「赤線」と呼ばれる地域です。一方で、当時も非合法で売春行為が行われていた「青線」という地域も……。そこで今回は、当時の性風俗の主役であった「赤線」と「青線」をピックアップして、その歴史と現在についてまとめて紹介していきます。


かつて売春が行われていた場所「赤線」と「青線」の違いとは

今ではほとんど使われない言葉なので、「赤線」や「青線」と言われてもピンと来ない方も多いでしょう。そこで、まずは赤線と青線の意味や、言葉の違いについて説明します。


赤線とは「警察公認の売春エリア」

赤線とは、警察公認で売春行為が行われていた地域のこと。この言葉は太平洋戦争後のGHQによる公娼廃止指令(1946年)によって使われるようになり、1958年の売春防止法とともに姿を消しました。

戦前の日本は、江戸時代以来の公娼制度(公に娼婦の営業を許可する制度)が存続しており、全国各地に遊郭が存在していました。この際に、売春目的の遊郭が集まる地域を警察が地図上で赤線で囲っていたことが、赤線の語源とされています。


青線とは「非合法の売春エリア」

一方で「青線」とは、警察からの許可なしで売春行為が行われたエリアのことです。「青線地帯」や「青線区域」とも呼ばれていました。

もっとも、お店の形態としては「赤線」の店舗とあまり変わりはなく、保健所からの営業許可を得ている飲食店が風俗営業許可を取らずに売春行為を行うケースがほとんどでした。今では考えられませんが、当時は戦後のドサクサもあって警察の取り締まりが行き届いておらず、青線の店舗は全国各地にかなり存在していました。

「青線」(非合法)は「赤線」(合法)と区別するための言葉でしたが、1958年に売春そのものが禁止されてしまったため、その後は「青線」という言葉も使われなくなります。


赤線・青線の知られざる歴史まとめ

風営法施行から60年以上も経っているだけあって、戦後に売春行為が合法的に行われていたことを初めて知った方も多いでしょう。はたして、赤線・青線の歴史とはどのようなものだったのでしょうか……。


当時の赤線の風俗事情とは?

厚生省公衆衛生局(当時)の調査によると、昭和30年代初めには、赤線地帯は全国1千カ所以上あり、店の総数も1万5千軒はあったとされる。
引用:AERA.dot


今では怪しげなイメージが定着している「赤線」ですが、戦後は性風俗サービスの花形でした。昭和30年代になると赤線地帯は全国で1千カ所を超え、約15,000店の風俗店(カフェー・料亭などなど)が営業していました。

ちなみに、ソープランド(トルコ風呂)は1951年(昭和26年)にようやく国内に第1店が開店し、風営法が施行された1953年にようやく100店に達する程度でした。

昭和33年4月1日の売春防止法完全施行をもって、赤線の灯はひっそりと消えたのである。5万人以上の女性が「職」を失ったといわれている。
引用:AERA.dot


当時、赤線地域で働いていた女性は5万人以上。もちろん、現在の風俗嬢とは事情が異なり、借金返済のために働いたり、家族の食費を稼ぐために働く女性もかなりいました。女性が働ける場所が少ないという時代背景も、これには大きく影響しています。

売買春の料金は地区や店の格などによって異なるが、
「ショート」「お遊び」と呼ばれる15分程度のコースが500円前後、
「泊まり」が1000~2000円程度。
引用:NEWSポストセブン


サービス内容として、店内で15~20分程度で本番サービスを行う「ショート」(今の飛田新地のような形態)と、別途、旅館などで一晩中プレイする「泊まり」などがありました。なお、「ショート」の利用料金は、当時のコーヒー10杯分。今より破格の値段で利用できたことになります。


そもそも「赤線・青線」ができた理由は?

いわば、認可店・非認可店の地域の線引きをするための「赤線・青線」ですが、これが生まれた理由として、終戦前まで続いていた公娼制度の存在があります。

玉の井の私娼の年齢は12歳から50歳くらいまでで、
17歳~20歳が一番多かった。
ほとんどが貧しい家の娘で、前借金によって売られてきたのである。
東北地方で冷害・凶作があると新顔の若い娘が増えた。
前借金の値段は5年契約で400円以下だった。大卒月給の8か月分である。
引用:赤線の女⑧ 管理売春の仕組み(玉の井)|しろみ茂平の話


公娼(こうしょう)とは、公に営業を許された娼婦(風俗嬢)のこと。戦前にも内務省による娼妓取締規則(1900年)がありましたが、実態としては、前借金(入店時に多額の金を貸し付けて、売春で返済させる)のシステムが状態化していたこともあり、当時の娼妓には不自由を強いられていました。

敗戦後、1946年にはGHQ(進駐軍)による民主化改革の一環として、ほぼ人身売買であった公娼制度は廃止されます。そして、遊郭などの店舗は警察に風俗営業許可を取る許認可制と変わります。しかし、小料理屋や旅館の体裁を取りながら、実際には売春が行われていた違法店も多くありました。これを区別するために称されるようになったのが、「赤線」「青線」です。

ちょんの間は、戦後の混乱期を契機に、全国の主だった歓楽街に出没し始めた風俗店だ。その出自は、売春防止法施行前でいう青線(許可されていない売買春街)に属するものがほとんど。
引用:はまれぽ.com


ちなみに、風営法施行後も、青線地帯にあった店のいくつかは営業を続けており、それらの店舗はちょんの間と呼ばれるようになりました。なお、現在でもいくつかの地域ではちょんの間は残っており、グレー気味ですが合法的に営業を続けているところもあります。


現在も赤線・青線は存在している?全国地域別に解説

赤線・青線だった街の中には寂れてしまったところも多いですが、今でも風俗街として賑わっているところも……。そこで、ここからは赤線・青線だったエリアの現状について、地域ごとにまとめて紹介します。


北海道地方


道内はもちろん、国内でも三本の指に入る大歓楽街・すすきの。現在も多くの風俗店が立ち並ぶエリアですが、ここもかつては「薄野遊郭」(すすきの ゆうかく)があった赤線地帯でした。

もともとはアイヌ民族の土地だった北海道・札幌。廃藩置県後の明治4年(1871年)に、当時の北海道開拓使によって遊郭の建設が始まります。当時、北海道は未開の土地とあって、開発には多くの働き手が必要でしたが、厳しい寒さで逃げ出す者が続出……。そんな労働者の足止めとして作られたのが、薄野遊郭でした。


現在のすすきのには「遊郭」や「赤線」の名残はほとんどありませんが、南の一角にある玉宝禅寺祖院(寺院)には、娼妓(遊女)や水子の霊を供養する石碑や、当時の妓楼の屋号が記された玉垣などが残っています。現地に行く機会があれば、夜遊びがてら、足を運んでみてはいかがでしょうか。

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関東地方


都内を中心に、多くの赤線地帯があった関東地方。その中で、現在も色濃く残っているのが吉原エリアです。現在もソープランドが所狭しと並んでおり、雑多な街並みはどこか昭和のなつかしさを感じます。


五反田などのように、赤線から歓楽街と発展した街も多い一方で、売春防止法施行後に唱家(風俗店)がなくなったところも多く、玉の井地区(現在の墨田区東向島あたり)もそのひとつ。以前は赤線の名残が残るカフェー建築の建屋も見られましたが、耐震上の問題などから、徐々に姿を消しています。


また、赤線地帯から大きく変貌を遂げたのが新宿西口エリア。今では歌舞伎町が風俗のメッカとされていますが、遊郭~赤線時代は新宿二丁目がメインエリアでした。なお、現在ではゲイ向け店舗が立ち並んでいます。


なお、赤線あるところに青線あり。歌舞伎町の一角にある新宿ゴールデン街も、かつては「青線地域」として知られていたエリアでした。今では海外客も多い飲みスポットとなっていますが、小さな店が立ち並ぶ独特な雰囲気は、青線時代の名残と言えますね。


また、今では神奈川県最大のソープ街として知られる堀之内~南町ですが、2000年代まではちょんの間エリアが存在していました。末期にはアジア系の遊女も多くいましたが、こちらも現在では壊滅状態となっています。


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